コペテン

コペテン
コペテンてなーに?
コペルニクス的転回でコペテン。
皆さんもご存知の天文学者のコペルニクス、彼は地球が宇宙の中心で周りが動いているのだという天動説から、地球は太陽の周りを回っている、太陽を中心に回っているのではという地動説を唱えたという事で知られている方です。
彼がそのことに気づき始めたのは1500年あたりの事。
当時ローマ教会では、ローマ時代以来のユリウス暦と実際の季節のズレが大きくなり、復活祭をいつに設定するかが大きな問題となっており、改暦の必要が急務とされていた。すでに天文学者として知られていたコペルニクスは、1514年にローマ教皇にローマに招かれ、改暦案を具申することとなったが、コペルニクスは、太陽や月の運動法則が明らかにされなければならないとして招請を断った。その30年後に、遂に公表を決意したコペルニクスは地動説をもとにした改暦案をローマ教皇パウルス3世に献じたが、ローマ教皇庁はそれを無視した。
そして、(引用)カトリックがコペルニクスの教説をこれほど嫌っていたのであるから、その敵であったプロテスタントは熱心に新理論を迎え入れたろうと考えるかも知れない。しかし実際には、プロテスタントは、カトリックよりもっと徹底的といってよい位にコペルニクス体系を拒否した。・・・彼の著作が出版される以前にも、コペルニクスはルッターに手ひどく批判されていた。ルッターは口頭で次のように告発した。「天や太陽や月ではなしに、地球が回転するのだということを証明しようとする新しい天文学者は、ちょうど動いている馬車や船に乗っていながら、自分は停まっていて大地や樹木の方が自分を通り過ぎて動いているのだと考える男のようなものだ。ところがこれが現状なのである。誰でも賢明らしく見せるには、何か独自のもの、それも自分の最良のもを生み出さなければならない! この馬鹿者は全天文学を上下転倒しようとしている。しかし聖書が証明しているように、ヨシュアが止まれと命じたのは、地球ではなくて、太陽だったのである。」<A.アーミティジ/奥住喜重『太陽よ、汝は動かず―コペルニクスの世界』1962 岩波新書 p.117-118>
 コペルニクスが死去したときに出版された唯一の著作『天体の回転について』は当時の学術の共通語であったラテン語で書かれ、6章からなる大部な書物で、アリストテレスやプトレマイオスの批判、観測法、その数学的理論を展開した上で、太陽を中心とした地球を含む惑星の回転論、さらに地球の自転、月の公転などの運行の法則などについて詳しく述べている。これらを総称して地動説と言っているが、その観測技術は簡単なもので、望遠鏡も用いておらず、現在から見れば不備が多い。また、太陽自身を宇宙の中心において不動のものと考え、すべての恒星もその周りを回っていると考えたことなどは、不完全なものであった。
 また発表当初は、プロテスタントから反発が上がったほどだったが、あまりに新規な説であったのでそれを理解できる人がおらず、ほとんど知られることはなく、カトリックの教皇庁からも無視の状態が続いた。しかし、地動説はその後、ジョルダーノ=ブルーノやガリレオ=ガリレイによって、観測と理論化が深められるに従い、ようやく教皇庁も異端的な思想であるとして警戒するようになった。その結果、1600年にはブルーノは捕らえられて死刑となり、1616年にはコペルニクスの著作も禁書目録に登録されたのだった。ガリレイは1633年に裁判にかけられて有罪とされた。コペルニクスの著作が最終的に禁書目録からはずされるのは、実に1822年のことであった。(引用 世界史の窓)
なんと地球が太陽の周りを回っていたということが周知の事実となるまでにコペルニクスが提言してからおよそ300年という時を経て認められたわけであります。
こうした歴史を見た時、人間界での認識というのは時の権力者の手の中にあるのだとしみじみ思い知らされる。というわけで大麻草も時の権力者のサジ加減を待つ庶民ではありますが流石にここまで世界が大麻草の認識の転回というコペテンを始めるともう大麻は危険という発想こそが危険という段階にきているのではないかとも思います。
日本の真実の開示は一体どんなことが引き金になるのだろうか?一般人がSNSを手に入れたことにより真実を知るスピードが早まった昨今ですのでコペルニクスの時代よりは早く真実の流布が進むのではないかと期待しているのですが…。
大麻が悪物から有用であった!認識の転回コペテンはいつ起きるのか?
大麻草の問題だけでなく、人類は未来を生きる人類のために消費、消耗、成功というエゴ的な生き方から、持続可能なガイアと調和した生き方へのコペテンが必要なのではないかと思う私であります。

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